「正しさ」とは何か?──心理学から見る“正義”と“思い込み”の境界線
■ はじめに:「自分が正しい」と信じるとき
「私は間違っていない」
「相手が悪いに決まっている」
「常識的に考えて、こっちが正しい」
日常の中で、私たちは頻繁に“正しさ”を主張したり、信じたりしています。
政治、育児、仕事、SNSでの意見交換…。意見がぶつかるたびに、私たちは「どちらが正しいか」にこだわり、感情をぶつけ合います。
しかし、「正しさ」とは本当に絶対的なものなのでしょうか?
この記事では、心理学の観点から「正しさ」の正体を探りながら、私たちが無意識に抱える偏りや、そこから生まれる対立のメカニズムについて解説していきます。
■ 「正しさ」は人によって違うもの
心理学では、「人は皆、自分のフィルターを通して世界を見ている」と考えます。
この“フィルター”には、価値観・育った環境・経験・文化・性格などが影響しており、それぞれが独自の「正しさ」を持って生きているのです。
たとえば:
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厳しい家庭で育った人にとっては、「努力や礼儀」が正しさ
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自由な家庭で育った人にとっては、「個性や自由」が正しさ
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苦労して成功した人は、「努力こそが正義」
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差別を経験した人は、「平等や多様性」が正しさ
つまり、正しさとは主観的なものであり、人の数だけ“正義”があると言っても過言ではありません。
■ 認知バイアスが「自分の正しさ」を強化する
私たちは、自分の考えや信念に合う情報を集め、それに反する情報を無意識に排除する傾向があります。
この現象を**「確証バイアス」**といいます。
例:
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自分と同じ意見の人の投稿ばかりをSNSでシェア
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自分に都合の悪いニュースは無視
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相手の言い分より、自分に都合のいいデータだけ信じる
このバイアスによって、「やっぱり自分は正しい」と確信を深めるため、他者との対話が難しくなり、対立が激しくなるのです。
■ 「正しさ」に執着する理由は“防衛”かもしれない
なぜ、私たちはこんなにも「自分が正しい」と思いたいのでしょうか?
心理学では、それが自己防衛の一種だと考えられています。
◎ 正しさ=自分の存在価値の証明
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自分の考えが否定される=自分の人生や選択を否定されるように感じる
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自分の信じてきたものが間違いだったと認めるのは、アイデンティティの崩壊につながる
だからこそ、「間違いを認めるより、自分が正しいと思い続けた方が心が安定する」のです。
■ 道徳心理学から見る「正義感」の多様性
心理学者ジョナサン・ハイトは、著書『善と悪の経済学』の中で、「道徳には複数の柱がある」と提唱しました。
たとえば:
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公平・公正(フェアさ)
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害を避ける(人を傷つけない)
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忠誠(仲間を守る)
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権威(秩序を重んじる)
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純粋性(神聖・倫理を守る)
この理論によると、人はそれぞれ異なる「道徳の価値基準」を持っていて、同じ事象を見ても“正しさ”の基準が異なるのです。
例:
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マスク着用を「人に迷惑をかけないから正しい」と考える人
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「強制されるのは自由を奪うことだ」と反発する人
どちらも“正しさ”を主張しているが、価値基準が違うだけなのです。
■ 「正しさ」の押しつけは関係を壊す
「自分は正しい。だから相手を変えなければならない」
この発想に支配されると、対話は成立しません。むしろ、次のような悪循環に陥ります。
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相手を説得 → 相手は防衛 → さらに主張を強める → 関係悪化
これは夫婦、親子、職場、ネット上の議論…どんな人間関係にも共通する現象です。
■ どうすれば「正しさ」に振り回されずにすむか?
1. 「正しい or 間違い」の二元論から離れる
→ 人の考えはグラデーション。白黒ではなく「グレーであること」を認める勇気を持ちましょう。
2. 「なぜその人はそう思うのか?」を想像する
→ 正しさの背景には、経験・信念・価値観があります。対話のカギは“理解しようとする姿勢”です。
3. 自分の中の「正しさの根拠」に気づく
→ それはどこから来たのか? 親の影響? 社会常識? 過去の経験? 無意識の偏りを見直してみましょう。
4. 間違えること=価値が下がる、ではない
→ 間違いを認めることは、弱さではなく成熟の証です。
自分にも他人にも、柔らかなまなざしを向けられるようになったとき、正しさへの執着は自然と和らぎます。
■ おわりに:「正しさ」は目的ではなく、手段
正しさは、誰かを傷つけたり、責めたりするための“武器”ではなく、よりよく生きるための“指針”のひとつです。
けれど、それが「他人を否定する道具」や「自己肯定のための盾」になってしまったとき、正しさは“正義の仮面をかぶった攻撃”に変わってしまうのです。
正しさに縛られないためには、柔軟な思考と、違いを認める余裕が必要です。
自分の正しさと、相手の正しさ。
その両方を、まっすぐに見つめられる心のしなやかさこそが、
“ほんとうに大切な正しさ”なのかもしれません。